- Bell Quest 冒険の書

リラの咲くころバルセロナへ_2014.3.7-9

 

 

欧州生活3ヶ月目。

ついに噂のライアンエアーで、カタルーニャの都バルセロナへショートトリップを敢行しました。

 

バルセロナ、高い空、エメラルドの海。

 

 

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今回の旅の目的は、ガウディと日光浴!

アントニ・ガウディの建築群をゆっくり徒歩で散策。バルセロナの高い空と太陽の日差しが昼間でも街をライトアップしていて、建物や路地の陰影がまるで絵画のようでアメイジング。都市観光だけでも見所満載のバルセロナ。今回はスキップしたけれど、アートの街バルセロナで、ピカソやミロ、カタルーニャ美術館など、美術館周り もしたいなら、3泊4日(中2日)くらい予定を確保することをお勧めします。

バルセロナといえば、ガウディ、サッカー、バル、ビーチとオリンピック。にゃん吉は覚えている最初のオリンピックがバルセロナらしい。ソチ五輪を観ていた ら、急に、オリンピックという単語が頭の中をぐるぐる駆け巡り、寒くて暗いブリュッセルから脱出したかった2月の気分も後押しして、バルセロナ行きの航空 券を手配。ついでに、リラの咲くころバルセロナへをお風呂で歌って、大学時代に友人から誕生日にもらったガウディの写真集を引っ張り出して、高い青い空へ の思いは急加速。チケットを取ってからは、ブリュッセルが寒かろうが雨だろうが気にならない!

ところで、私は大学で第二外国語にスペイン語を選択したけれど、勉強したはずのスペイン語も今では数字と挨拶ぐらいしか覚えていません。唯一覚えている一文を、ブ リュッセルで友達になったスペイン人の子に行ってみたら、それは「私は図書館へ行くつもりだ」という意味だよ、と言われました。ボイアライルアラビブリオテカ(-_-) オラオラ言いながら、二人旅は始まったのでした。

 

 

サクラダファミリアから市内を一望

 

到着後、まず最初に向かったのがサクラダファミリア。写真で見るサクラダファミリアは広い場所にポツンと建っていて、エッフェル塔やケルンの大聖堂みたいに遠くからでもすぐ見つけられるのかと思っていた。実際のサクラダファミリアは、グリッド状の新市街のど真ん中にほど近い1区画をフルに使って建っている。通りを挟んで向かいのブロックは、民家のアパート群。正面と後方のブロックは公園になっている。完成予想模型でいうところの、真ん中の一番背の高い塔がまだ無いからなのか、結構近くに行っても近所のアパート群で隠れて姿が見えない。

 

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サクラダファミリアに入場を希望するなら、事前にHPから予約必須。現地でもチケット購入可だが、長蛇の列。オーディオガイドは日本語なし。ガイドなしでも、圧巻。タワーに登れる。登りはエレベーター、下りは階段。地化の展示スペースがすごい。どの辺がすごいのかって、凡才が文章で凄さを称賛するのはサクラダファミリアに対する冒涜以外の何物でものないので、これ以上は書かない。百聞は一見にしかずと言うけれど、よく目にする外観に加え、内装の有機的な滑らかさは筆舌に尽くし難いこと限りなし。自然を人工的に再構成されたデザインが随所にちりばめられ、機能性と芸術が両立している。天才っているんだね、ガウディの頭の中っていったいどうなっていたんだろう。

 

2026 年、完成イメージCG

 

 

 

 

街を歩く、海へ向かって歴史を遡る

 

 

バルセロナの発展の歴史は、街を歩くことで体感できる。地図を広げると、この街が地中海の貿易港で始まり、旧市街が城壁を超えて新市街へ街が広がっていった様子が手に取るように わかる。教会と広場を中心に同心円状に旧市街が広がり、城壁を境にして新市街が旧市街を囲んでいるのが、ヨーロッパ的な歴史ある都市の標準的なスタイルである。バルセロナも例外ではないが、19世紀以降度重なる政治的困難で何度も頓挫しながら時々の住人たちが何度も都市計画案を作り直しながら人間が暮らしやすい近現代の街へ自らを変革していった。港を中心に同心円状に同じような景観で街が拡張されたアムステルダムや渦巻き状に区割りが増えていくパリとも違っていて、地図そのものが非常に興味深い。

 

航空写真

航空写真

 

散策のスタートは、グエル公園。

バルセロナの新市街を見下ろす北の山の手にグエル公園がある。ガウディと彼を支えた中産階級のエウゼビ・グエルの面影や、町はずれの禿山だったこの場所を新興住宅開発地に選んだ20世紀初頭に思いを馳せながら、遠く地中海と高い空の境目を眺める。

 

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グエル公園から緩い坂を下ると、19世紀半ば以降に切り開かれた新市街が広がる。前世紀に開発された一番外側のエリアは、車一台がようやっと通れるほどの細い石畳の路地で細かくブロッキングされている。密集したアパートブロックの合間の広場では、楽器を演奏する人、せり出したカフェのオープンエアの席で犬の散歩中にビールを一杯楽しむ夫婦や、キックボードで走り回る子供たちが休日の昼下がりを思い思いに過ごしている。

 

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緩い坂道を下りきると、1850年代後半に推進された初代都市改造でグリッド状に整備されたエリアにたどり着く。バルセロナの初代都市計画は1859年にゼルダという地元出身の土木技術士によって作成された案が元になっている。中央政府役人でもあった彼のプランは、その後の地元政治家、建築家たちから嫌われた。モデルニスモの巨匠プーチは工学的な機能性を重視したゼルダ案を真っ向から否定したそうな。20世紀に入るとゼルダ案での都市計画はいったん頓挫してしまう。よって、20世紀以降に整備された山の手の比較的狭い路地で分割されたエリアと19世紀後半にゼルダ案で整備された平野部のグリッド状のエリアは都市景観の雰囲気が異なっている。地図上でも確認できるがゼルダ案で整備されたエリアは、区画は400m×400mのモジュールに分割されている。さらに各モジュールを縦横3分割し、幅20mの道路が通してあり、1区画は一辺 111.3m。1850年代当時、来るオートモーティブの時代を見越して道路設計を行ったゼルダの先見の明には驚くばかりです。

 

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そして、街並みとともに時代を遡る旅は続く。

 

山の手方面から、グラシア通りを地中海に向けて南東に進む。ゼルダ案で整備されたアンシャプラ地区と新市街には、19世紀から20世紀初頭にかけての中産階級、モデルニスモの建築家たちの活躍の名残が随所にちりばめられている。

 

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バルセロナのシャンゼリゼ通りとも言われるグラシア通りの終点であるカタルーニャ広場を背に、地中海へ向かってランブラス通りを進むと、街の景色は一変する。13~14世紀のゴシック様式の建築群が立ち並ぶ。今ではゴシック地区はバルセロナ観光で旧市街の薄暗い路地裏から、雲一つないバルセロナの高い空を見上げる。

 

 

ランブラス通りが地中海とぶつかるところに、コロンブスの塔がたっている。

 

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コロンブスの塔を背に、歩いてきた通りを振り返ると、に向かって左手には、モンジュイックの小高い丘が横たわる。モンジュイックは、1992年に開催されたバルセロナオリンピックのメインスタジアムがある。右手には、ヨットハーバーとカタルーニャ歴史博物館が見える。生暖かい春の夕方、海が見える広場では観光客や大学生くらいの若者たち、スケボー少年たちが広場で遊んでいる。海岸沿いを右手に進むと、バルセロネータのビーチ、オリンピック村が続いていく。

 

 

19世紀にいち早く産業革命を達成したバルセロナでは、現在のオリンピック村の場所に繊維関連の工場や倉庫が無秩序に建てられていた。砂浜のビーチは埋め立てられ、20世紀半ば以降に繊維産業が斜陽していくにつれて、海は街から断絶された人の寄り付かないエリアとなっていった。1975年、およそ40年間にわたり独裁を続けたフランコが亡くなりスペインは一気に民主化が進む。

1986年には、サマランチの地元バルセロナで悲願のオリンピック開催が決定。1992年までの6年間、モンジュイック地区からオリンピック村にかけての港湾地区の再開発が加速することとなる。

こんなにきれいなエメラルドの海があるのに、海で自然を感じられなかった前世紀のバルセロナの住民は本当に気の毒だ。海がある街に育った私は、地元の海が大好きで、寒い時期のほうが多いけれど海を見に海岸に行きたくなる。ちなみに、入り江であるせいか、バルセロナの海はあまり潮のにおいはしない。行った日がたまたまそうだったのかもしれないが、波も非常に穏やかだった。

今回の旅行に際して、バルセロナを調べててわかったんだけど、バルセロナとリラは何の関係もない!リラ(ライラック)は春の花、リラが咲くころ行ってみたバルセロナでリラは一度も見なかった。闘牛もどちらかというとマドリッド方面のもので、バルセロナではマタドールを見かける機会もなく。それでも、にゃん吉に何それ?と言われても、私のバルセロナのイメージは、リラが咲くころバルセロナ。日本人ですと言うと、すし、てんぷら、さむらい、黒沢って連呼されるのと同様、自国以外の国に対するイメージってそんなもんだよなと思いつつ。。

 

 ■ 今回のお散歩ルート

 

 

 

■ グエル公園

 

公園内はフリーの場所と有料の場所がある。有料のエリアはチケット発見後30分以内に入場する必要がある。市場になる予定だった広場のモザイクが美しい&機能的。ひんやりした陶器のベンチにずっと座っていたくなる。

 

 

■ カサ・ミラ

 

外装工事中のため、外側から全体感を観ることは出来ず。上にちょろっと見えてるのがカサ・ミラの煙突(笑)

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■ カサ・バトリョ

 

日本語のオーディオガイドあり。ディズニーアニメの世界に迷い込んだような幻想的な建築にも関わらず、すべてが機能美。細かい作り込みは、前世紀の作品とは思えないほど機能的なのに美しい。度肝を抜かれ、口を半開きにしたまま、2時間超滞在。晴れてガウディ教信者となったにゃん吉は、オーディオガイドのセリフの物真似がマイブームに(笑)

 

■ カテドラル大聖堂~ゴシック地区

 

大聖堂シリーズ。ステンドグラスが綺麗。金の装飾が目立つ。古い街並みを期待するなら、ゴシック地区に行くべき。バルも多く、広場は陽気な観光客で一杯。ただし、ランブラス通りを南に入ったラバル地区は治安に不安あり(>_<)

 

 

■ サン・ジュセップ市場

 

バルセロナ市民の台所、サン・ジュセップ市場。生ハムの豚の足、足、足からの、生鮮食料品、野菜、果物に可愛らしいお菓子たちのお店が並ぶ。バル風に軽食を楽しめるお店もあるので、小腹を空かせていくのが吉。

 

 

■ ポルト・ベル

 

コロンブスの銅像。コロンブスの目線の先には、夢や希望や野心がある気がして、勇気をもらう。海のある町に生まれ育った私は、やっぱり海が好き。ヨットが沢山止まっている。ヨットが入港するために橋が回転する。夕日が山に沈む。

 

 

■ サンパウ病院

 

ドメニクの代表作。11時開場。10時30分前に到着したにも関わらず、すでに200m超の長蛇の列。そして、あっという間に我々の後方にも長蛇の列。入場フリーなため、時間帯での予約不可。行くなら並ぶ覚悟が必要。日よけできる場所がないので、夏場は厳しそう。中は、並んでまで観る価値がある。病院の美しさ、圧巻。

 

 

■ セッテ・ポルタス

 

うちのアパートのオーナー、マリアおすすめのレストラン。と、思ったら、某地球の歩き方にも”パエリアがおいしいお店”として紹介されていた(゚д゚lll)日本人出現率が高くてちょっとうんざり(卒業旅行の子たちの就活の話とか、他人の恋愛話とか、わざわざバルセロナ来てまで聞きたくないのに聞こえてくる 泣)お店も、ローカルの常連さんにはしっかりサービス対応している様子。

ただし!お料理はと~ってもデリシャス☆テーブル毎にサービサーが付くわけではないけれど、ワイン対応してくれたお姉さんも親切でキュート。そしてワインがお値打ちで美味しい。軽く二日酔いで、朝の胃が辛い我々だったのでした。

 

■ ランブラス通りのバル

 

2日目、市内散策の途中、立ち寄ったランブラス通りのバルで、ハモンイベリコ&サングリア。観光気分が一気に盛り上がります。でも、オーダーする時にキチンと何人前か伝えなかったら、全部ちゃんと2人前用意されてしまい、ちょっと楽しむつもりが、結構しっかりおなか一杯になってしまうハメに・・・一人34€のカフェタイム、観光地マジック☆ ハムはやっぱりイベリコが好き!そのあと、お土産やさんでハムを試食したけれど、ランブラス通りのバルで食べたハムのほうが断然美味しかった♬

 

■ 22@エリアのレストラン

 

2泊目は、観光エリアから1kmほど北東に外れた、昔の工場地帯を再開発したエリアからオリンピック村のある海岸へ向かう途中のレストランでディナー。オフィスとビジネスホテル街の一角のレストランでは、日本人は珍しいらしく、サービサーのお兄さんがとっても優しい。私は、パエリアコース(前菜のトマトパン+サラダ+ムール貝盛り+パエリア+コーヒー+白ワイングラス)で衝撃の19.9€ (゜-゜) いつも調理法が気になっていたアンティチョークのオーブングリルと、ロブスター教のにゃん吉セレクトのスチームドシーフードをオーダー。出てくる量も、半端なくて、途中で「パエリアコース、一人分ってお願いしたよね?!」と不安になるほど。味わいも想像していたスペイン料理!っていう感じで、大満足。劇的なお値打ちっぷりに、観光地マジックをまざまざと実感したのでした(-_-)

 

 

■ Appendix~カタルーニャの都、バルセロナ

 

 

バルセロナ市街、可愛らしいヨーロッパのアパート街の風景は南欧効果かヨーロッパ北部に比べるとなんとなくカラフル。パステルピンクやパステグリーンに塗られた壁、デザインが入った鉄柵に縁どられたバルコニーにはプランターの緑が所狭しと並べらている。19世紀以降、”スペイン”でいち早く(しかも、唯一の)産業革命を達成したバルセロナが行った都市改造で拡張した新市街はグリッド状の区画が立ち並ぶ。ローカルが居住する極々ふつうのアパートを見上げると、カタルーニャやバルセロナの旗をベランダから飾っている家庭がなんと多いこと。

 

路地

路地

バルセロナはスペイン第2の都市である前に、カタルーニャの最大の都である。スペインであって、スペインではない。世界遺産のサクラダファミリアのオーディオガイドも、サクラダファミリアはカタルーニャが世界に誇る世界遺産、と言い切っている(スペインが世界に誇る、ではないところがツボ)勝手に、大阪と東京がなんか言い合ってる感じなのかなと思っていたのだが、民族そのものが異なり、言語やカルチャーもいわゆるカスティーリャ(マドリッド)とは大きく異なるバルセロナ。歴史を紐解くと、大国に対抗するために手を取り合って共存してきたというよりは、お互い違う主張を持ち独自のスタイルで歴史を積み重ねてきたが時勢に乗り切れなかったカタルーニャが結果としてカスティーリャを前身とする現スペインに組み込まれているというイメージにほど近い。

近現代史を足早に振り返ると、イギリス、フランスでの相次ぐ市民革命から産業革命が始まった18世紀後半、スペインの近現代の動乱が始まる。スペイン黄金時代が終焉し、ヨーロッパ新興国に遅れを取り始めた18世紀、ナポレオン戦争やハプスブルク家の衰退を経て、19世紀初頭にスペインでも自由主義勢力によるリエゴ革命が起きる。リエゴ革命はフランス軍によって制圧され、市民革命による民主化は達成されなかったものの、新しい時代の風がスペインにも吹いたことに違いはない。スペインの王政は1873年まで続く。1873年に第1共和政が成立するも、よく1874年には王政復古。この王政下でスペインは第一次世界大戦を迎える。第一次世界大戦では中立政策をすすめるも、国内は激しいインフレで経済が混乱し、労働層は貧窮を極めることとなる。1917年にロシア革命が勃発。帝政ロシア崩壊はスペインの人々の王政打倒の機運を高めると同時に、カタルーニャの独立熱も過熱していく。この時期が、ドメネク・ガウディ・プーチなどモデルニスモの巨匠が活躍した時期と重なる。バルセロナではスペインで唯一の産業革命が進展し、都市化、工業化が進んだ。その流れの中で中産階級が台頭と労働人口の都市集中が発生し、富と貧窮、旧体制と新時代の胎動が入り乱れ、独特の都市景観と芸術が発達していくこととなる。

内政が混乱を極める中、1923年に軍事政権であるプリモ・デ・リベーラ政権がクーデターによって成立。1930年にはプリモ・デ・リベーラ政権が崩壊し、革命運動が広がる。翌1931年の選挙では共和派の革命勢力が勝利し、国王は廃位され、第2次共和制が始まることとなる。新政府は右派・左派のバランスの上に成り立っていたが、右派寄りの政府が国内の混乱を収拾しきれない状況が続き、1936年の選挙ではスペインでも左派が圧勝し人民戦線政府が誕生する。そして、ヨーロッパの時代はファシズムへ突入していく。反ファシズムの人民戦線政府樹立後も国内の混乱が収まらない中、1936年7月、フランシスコ・フランコ将軍がクーデターを起こす。ドイツ・イタリアのファシストの支持を受けたフランコは、ソ連の支持を受けた人民戦線政府と3年間に渡り激しい内戦を繰り広げ、1939年にその後1975年の彼の死まで続く独裁政権を確立する。

フランコ独裁政権下で第二次世界大戦を迎えたスペインは結果として中立の立場をとったため、西ヨーロッパにあって戦後もファシズム政権が継続することとなる。フランコは中央集権を推し進め、カタローニャは独自言語の使用および民族独自性を否定された。唯一カタローニャ語が許されたのがカンプ・ノウ・スタジアム(FCバルセロナの本拠地)だったことも興味深い。この地域では、サッカーはスポーツを超えた意味を持っている(らしい)。週末、街を行く子供は男の子は皆サッカーの帰り道。サッカーチームのユニフォームを着て、ちょっと汗臭い感じでバスに乗り込むサッカー少年や、ハンドボール位の小さなサッカーボールを転がすキッズたちがとても可愛らしい。

1975年フランコの死後、1978年にスペインは立憲君主国家へ移行し、一気に民主化を推し進めることとなる。1982年にはFIFAワールドカップ開催、1986年にはEC加盟と1992年のバルセロナへのオリンピック誘致に成功。その後、2009年にリーマンショックが弾けるまでスペインは1世紀ぶりの安定と活気を取り戻したのでした。

■ MORE ABOUT BARCELONA

 

 

バルセロナ旧市街の再生 (阿部大輔、2014年度第4回都市環境デザインセミナー記録)

スペイン観光局(オフィシャルHP)

バルセロナ観光バス(オフィシャルHP)

サクラダファミリア(オフィシャルHP)

カサ・バトリョ(オフィシャルHP)

 

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